LOGIN「さて、値踏みの時間だ、白峰結月。君の価値ある話を聞かせてもらおう」
失礼な物言いとわかっていながら、彼はそう言った。帝は手にしたグラスをバルコニーの欄干に置くと、私の逃げ道を塞ぐように一歩、足を進めてきた。
大柄な彼の影が私をすっぽりと覆い隠す。 普通の令嬢なら気絶しかねない捕食者のプレッシャー。 でも私は微動だにせず、その漆黒の双眸を見つめ返した。「出し惜しみはいたしませんわ。諸星代表、あなたが今、裏で極秘に進めている『半導体材料事業への一斉投資』3年後、供給断絶が起こるとあなたは考えていらっしゃる。だから、材料を握る者が世界の供給網を制する――という私の予測、どこまで当たっています?」
帝の目
「ふ……ふざけんなっ! なんでストップ高なんかにっ……!!」 わなわなと体が震える。このままじゃまずい。どうしよう。「陽太くーん、『ストップ高』ってなに? もしかしてお金が増えたの?」 ソファーの上で、成美が首をかしげながら呑気に聞いてくる。普通の状態だと、ストップ高というのは株価にとっていいものだ。だから儲かったと思うのは当然だろう。しかし―― 俺の脳内は、恐怖と混乱で完全にパニックを起こしていた。「増えてないんだよ!!」俺は成美に向かって声を荒げてしまった。「ストップ高ってのは、株価が限界突破して大暴騰したってことだ!! 空売りしてる俺にとっては、含み損が無限大に膨らんでるんだよっ!!」「え……? 含み損……? それって損したってこと?」「クソッ、注文が通らない! 市場が閉まってるからな……。いや待て、明日もストップ高で寄り付かなかったら……俺の数十億が、一瞬で吹き飛ぶ……!?」 ガタガタと震える手でキーボードを叩くが、15時に閉まった市場はビクともしない。 冷や汗が吹き出し、膝が笑ってガクガクと崩れ落ちそうになる。 その時だ。 さっきまで「陽太くん♡」と甘い声を上げて俺の
――数日前。ザギンのオフィス。 「成美、もっと高いワインで乾杯しよう!」 「すごーい、陽太くん天才ー♡ 投資の才能ある~! ねえねえ、あのマンション買って~♡」 「いくらでも買ってあげるよ」 「きゃーん♡」 俺は成美をめちゃくちゃに抱いた。 天空のオフィスで乱れるとか最高すぎん? 前世ではこんなこと、一回もできなかったんだ!! ああやべ最高~♡ 「あんっ、陽太君♡ もっと来てぇ♡♡」 「成美、かわいいよ、成美♡」 「いっぱいちょうだ~い♡ 陽太君の赤ちゃん欲しいなぁ~♡」 赤ちゃん欲しいだって!? ふんごー!! 結月とも結婚しなきゃいけないし、俺、忙しすぎん? 「いいよ、いっぱい受け取って」 「ああーん♡」 というのを3回くらい繰り返した。天空のザギンオフィスで裸の暴れん坊しちゃって、もう、最高♡ あの時は、まさに人生の絶頂だった。 オフィスのソファーで、服を乱した成美を抱き寄せながら、俺はPC画面の赤一色のチャートを見て高笑いしていた。「陽太くんすごーい♡ 今の彼氏より、陽太くんの方が何万倍も男らしいよぉ!」 成美が白い胸を押し付けてすり寄ってくる。彼女は海外から帰ってきたばかりで、俺の資産を自由に使えることに大喜びだった。
「頼む……頼むよ! 追加の担保なら月曜までに何とかするから! 強制決済だけは待ってくれぇっ!」 ザギンの街角。夕闇が迫る歩道に膝をつき、俺は冷や汗と涙で顔をベトベトに濡らしながら、電話口の証券会社に向かって惨めにすがりついていた。土曜日だというのに、俺から金をむしり取ろうと担当の男(若いやつ)が何度も連絡してくるんだ。 ザギンの超一等地。俺が数十億のキャッシュをチラつかせて結月から横取りした、あのガラス張りの高級ビル。白峰の株を空売りしまくったせいで発生した損失は、とんでもない額になった。追証(信用取引において委託保証金維持率が最低保証金維持率を下回った際に発生する追加保証金)が発生していて、現金が枯渇すると知った不動産会社はあっさり掌返し、事務所から追放され、途方に暮れていたまさにその時―― 一台の黒塗りの高級リムジンが、滑らかなエンジン音とともに路肩へ静かに滑り込んできた。 信号待ちで停車したその車のリアシート。 スモークガラス越しに映し出された光景に、俺の眼球は飛び出しかけた。 (な……なんだ、あれ……!?) そこにいたのは、結月と諸星帝だった。 二人は繋いだ手を片時も解こうとせず、結月の膝の上には不釣り合いな大きなネズミのぬいぐるみ。 結月は心底幸せそうに、愛おしそうに帝の肩に頭をちょんと預け、帝はそんな結月の髪に優しくキスを落とし、甘く囁き合っている。 どこからどう見ても、お互いを愛し合っている「完璧な恋人同士」の空気感。 結月が自分から男にすり寄り、あんな甘く蕩けたような表情を浮かべているなんて、前世を含めて一度だって見たことがない。 「っ……な、なんで……なんでお前らがそんな顔してんだよ……!? 俺は、俺は今、こんなに困ってんのに……っ!」 血の気が引き、頭が激しい嫉妬と屈辱で真っ白になる。 俺が追証の恐怖で吐きそうになりながら地面に膝をついている目と鼻の先で、あいつらは夢のような甘いデートの余韻に浸っていたのだ。「結月ぃぃいいい! どういうつもりだぁぁああっっっ!!」 信号が青に変わり、静かに走り出そうとするリムジンに向かって、俺はなりふり構わず叫びながら追いかけた。ふたりは俺の存在に気づきもしない。「待て! 待ってくれ結月ぃぃいいいッッッ!!」 俺は必死で手を伸ばし、もつれる足でリムジンの後を追いかけた。 だが
そして、遊びつくしてあっという間に夕暮れ時になった。 いつの間にかずっと手を繋いで園内を回っていた。「二人きりになれる場所へ行こう」 帝が視線を向けた先――そこには夕暮れのオレンジ色に染まり始めた空に、ゆっくりと大きな円を描く観覧車がそびえ立っていた。 繋がれた手から伝わる温もりが、初夏の夕風に溶けていく。 私はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら、「はい」と小さく頷いた。 橙色に染まる空に、ゆっくりと回る巨大な観覧車。 二人きりのゴンドラに乗り込むと、下界の喧騒が一気に遠ざかり、密室の中に甘い沈黙が流れた。「綺麗ですわ」 窓の外の夕暮れの街並みに見とれていると、隣に座った帝の腕が、そっと私の肩を抱き寄せた。「結月」「はい……んっ」 あっと思った瞬間、優しく、けれど逃れられない強さで唇を塞がれた。 以前のような激しいお仕置きのキスではなく、慈しむような、愛おしさに満ちた甘い甘い口づけ。 夕日に照らされる帝の顔は、今まで見たどんな顔よりも甘く、そして情熱的だった。「……君が俺の前に現れてから、毎日が狂わされっぱなしだ」 額を寄せ合い、帝が掠れた声で囁く。「もう俺の手から逃げられると思うなよ?」 文句を言う前に再び唇が塞がれた。優しく舌が絡みつき、甘く思考を支配する。 そのまま抗えない痺れが身体中を駆け巡り、私は彼の手を強く握り返した。 ほんと油断のならない男――「んっ……ふ……っ」 二度目の口づけは一度目よりも深く、けれど壊れものを慈しむように丁寧で甘かった。 呼吸が途切れ、私の胸に抱えられたネズミのぬいぐるみが二人の間に挟まれて少し潰れる。帝はその柔らかい感触に気づくと、くすりと小さく胸を揺らして微笑み、私の頭の後ろに大きな手を回してさらに深く唇を重ねてきた。 観覧車がゆっくりと頂点へと差し掛かる。 夕闇が迫る街並みが眩しく輝き始めているのが目下に見える。「……息、できているか?」 ようやく唇が離れると、帝は私の潤んだ瞳を愛おしそうに見つめ、親指で私の熱くなった下唇をすっと優しくなぞった。「っ……、誰のせいだと思っているのですか……」「フッ、君のせいだな。そんな顔で俺を見つめるのが悪い」 そう言って帝は私の肩を抱き寄せたまま、己の広い胸の中に私をそっぽりと包み込んだ。 彼のトクトクと刻まれる規則正しい心音と、彼から
「ルールは『一般のお客様と一緒に楽しむこと』ですわ。逃げるのですか?」「逃げる……? 言ってくれるな。誰が逃げるか」 帝はフッと挑戦的に口角を上げると、堂々とした足取りで列の先頭へと歩き出した。 そして案内されたユニコーンの中から、一番大きくて装飾が豪華なものを選ぶと、長い脚を軽やかに翻して優雅に跨がった。 (絵になりすぎていて、逆に怖いくらい……まるで白馬に乗った王様ね) 覇王が白馬に跨がる姿は、まるで絵画から抜け出してきた中世の騎士そのもの。周りの子供たちや母親世代から「キャー! お兄さんカッコいい!」「王様みたい!」と歓声が上がる。 私はその隣のユニコーンに乗って、思わず吹き出してしまった。「ふふっ、お似合いですわよ、帝」「笑うな。君が乗れと言ったんだろう」 不機嫌そうに呟く帝だったが、音楽が鳴り響き、ユニコーンがゆっくりと上下し始めると、彼はそっと隣の私の手に自分の手を重ねてきた。「だが……悪くないな」「え?」「君と同じ目線で、同じ風景を見ながら風を感じるのは、案外心地いい」
「……本当に、ここをデート場所にするつもりか?」 私たちがやってきたのは、関東でいちばん有名な遊園地施設。そう、ここはネズミーランド! 白亜のお城がゲートから見えている入場門前で眉間に深々とシワを寄せているのは、諸星帝だ。 普段の上質なスーツ姿とは違う、どこかリラックスした装いから醸し出されるフェロモンとオーラは異次元で、周りのカップルや女子高生たちが「キャー! あの人ヤバすぎない!?」「モデル? 芸能人!?」と遠巻きに黄色い悲鳴を上げている。「ええ。諸星代表を『普通の男』として連れ回すのが、私からの褒美とお返しだと申し上げましたでしょう?」 私はライトブルーのフレンチスリーブのワンピース裾を揺らし、フッと悪戯っぽく微笑んで見せた。「混雑しているからと言って、貸し切りも禁止ですわ。一般のお客様と一緒に並んで、アトラクションを楽しむ。それが今日のルールです」「……言っておくが、俺は絶叫系などという乗り物で興奮するような男ではないぞ」 そう言いながらも、帝は不器用な手つきで私の手を取ると、自分のジャケットのポケットへとそっと滑り込ませ、恋人繋ぎでギュッと指を絡めてきた。「逃げるなよ、結月。一日俺の好きにさせてくれると言ったのは君だ」「はいはい。行きましょう、帝」 初めて繋ぐ、大きくて温かい手。 いつもは世界経済を動かす冷徹な投資家の手が、こんなにも熱く私を優しく握りしめていることに、胸の奥がキュンと甘く痺れていく。 ベッドの中で激しく抱き合ったのに、手を繋ぐのは初めてなんて変な感じ。 アトラクションの列に並んでいる最中も、帝は私を人混みから守るように、ずっと背後から包み込むように寄り添ってくれた。「これ、食べてみます?」 私が買った焼き立てのチュロス(シナモン味)を差し出すと、帝は「俺は甘いものは……」と一瞬眉をひそめたものの、私が「おいしいですわよ」と言って見つめ返すと、素直に口を開けてハムッと一口かじりついた。「意外と悪くないな」「ふふ、可愛いところもありますのね」「……可愛いだと?」 帝は少し不機嫌そうに目を細めると、私の腰をグッと引き寄せ、耳元で低く囁いた。「ベッドの上で『可愛い』のは誰だったか、今ここで思い出させてやろうか?」「っ……! ここは外ですわよ!?」 顔を一瞬で真っ赤に染めた私を見て、帝は満足そうに「ふっ
「な、んでだよ……っ!!」 俺は、武藤会長を連れて女王様みたいに華やかに去っていく白峰結月の後ろ姿を、ただ口を開けて見つめることしかできなかった。 驚きとパニックに、名刺入れを握る指先がみっともなくガタガタと震える。 周囲の連中が「何だあいつ?」と俺をクスクス笑っている気配がして、顔がカッと熱くなった。 おかしい。こんなの絶対におかしい!
その困ったような笑顔。前世で私の心をいとも簡単に溶かしたあの顔。 不思議だった。あれほど焦がれた表情を前にしているのに、私の心は凍った湖のように静かだった。 手を伸ばして彼に武藤を紹介し、二言三言の助言を与えれば、彼はすぐに息を吹き返す。そしてまた、あの幸福で——その実、破滅へと続く十年が始まるのだ。 私はゆっくりと微笑んだ。 前世の私なら、ここで罪悪感に押し潰されていただろう。困っている人を見捨てる冷たい女だと、自分を責めたはずだ。けれど私を無情に切り捨てた男のために、これ以上、自分の優しさを安売りするのは——終わりにする。「ごめんなさい。人違いだと思いますわ」「えっ……
シャンデリアの光の下で、若き日の一条陽太は、滑稽なほど浮いていた。 仕立ての悪いスーツ。借り物のような笑顔。名刺入れを握りしめる指先は、誰の目にも分かるほど強張っている。この華やかな会場にいる誰もが、彼を「場違いな田舎者」として、視界の端で処理していた。 二十二歳の陽太。まだ、何者でもない。これから十年をかけて私を喰い尽くす牙も、初恋の女に狂って身を滅ぼす弱さも、その内側にすべて眠らせたまま、彼はただ、必死だった。 前世の私は、その姿に、どうしようもなく惹かれたのだ。磨けば光る原石だと、本気で信じた。そして、光らせてやれるのは自分だけだと——思い上がっていた。 今なら分かる。私が惹
※「——結月さん? 白峰結月さん、聞いていらっしゃいます?」 名前を呼ばれて私は目を開けた。 まず飛び込んできたのは、まばゆいシャンデリアの光だった。磨き上げられた大理石の床。氷とグラスの触れ合う澄んだ音。着飾った人々が交わす華やかなざわめき。香水と、生花と、上等なワインの匂い。 冷たい安アパートの天井ではなかった。胸を焼く痛みもない。 視界を落とすと、手が映った。それは——細く、白く、傷ひとつない若い指が、シャンパングラスを握っていた。 鏡張りの壁に映った自分の姿に私は息を呑んだ。そこに立っていたのは、二十二歳の私だった。 すべてを奪われ、たった一人で死んでいったはず







